最近思っていることがある。いや、最近思っていることも何も年がら年中とりあえずGXのことを思い続けている今日この頃なのでこの言い方が妥当かどうかは知らないがとりあえず思っていることがある。
65話、亮がヘルカイザーと化したとき―「何故だ」そう視聴者は思ったという。それが大多数なのか一部なのかは私には知る由もないが、ネット上を見る限り大多数であるように思う。
だが待ってくれ、「サイバー・ドラゴン三体融合で召喚するサイバー・エンド・ドラゴンが大好き」な時点で亮は海馬なのだ。これは全部見たから言えることではあるにしても、間違いないだろう。
ということは、驚くべきは「亮がヘルカイザーになったこと」ではない。そんなのは海馬を見ていればさもありなんである。だから驚くべきはそこではなく、あの海馬を原型にして「カイザー亮」を生み出す武上純希の(名指ししていいかどうか分からないが)腐女子顔負けの妄想力のほうなのだ!(笑)
他の話をいくつか見ても多分言える。武上さんは、どんな人からでも「良心の片鱗」あるいは「長所の素質」とでもいうものを見つけるのが異常にうまい。逆に言えば、「悪の片鱗」や「短所の素質」だって見つけるのがうまい。そもそもこれらは裏表の関係でしかないのだ。
剛三郎との確執・トラウマという闇が過去にある限り、海馬は遊戯の「友」には決してなれないにしても、その「友」とイコールで結ばれるレベルの「好敵手(ライバル)」にまでなった。だから亮は、第一期で十代の「先輩」だった。それは「好敵手」以上に「友」に近いもの、というよりは「友」そのものだっただろう。
けれど、亮はそこには留まれない。海馬を原型にした亮は、あくまで「好敵手」の宿命を背負っているのだ。ライバル―目指すスタイルを違える者、という。
ぶっちゃけた話、亮にとっても十代にとっても、「デュエル」は「趣味と実益(仕事)を兼ねたライフワーク」である。違うのは、亮の「仕事」が「プロデュエリスト」という次元なのに対して、十代の「仕事」は「ヒーロー」という次元にあるということぐらいである。そして、「仕事」でデュエルするときには勝たないといけないし、そのためには日々強くなる努力は怠れないのである。
だったら、趣味だけでやっているなら強くならなくていいか?これはもう本人の自由と言うほかないが、亮と十代に関して言えば答えはこうだ。強いほうが面白い。そういう結論を出しているのが亮VSダークヨハンだし、「趣味のデュエル」の究極が十代VS遊戯である。
だが、「趣味は仕事にしたくない」という考え方に一理ある通り、趣味を職業にするというのは非常な困難が伴う。亮と十代はもろにその困難に直面していた。仕事はときに、やりたくなかろうがやらなければならないし、できないから諦めるは通らない。できないことが仕事に必要になれば、できるようにならなくてはいけない。そのとき、好きでやっていたはずの「趣味」は楽しくない「仕事(タスク)」と化すのだ。
それでも、「直接的に誰かのためになる仕事」なら、まだジレンマは少ないかもしれない。だがデュエリストというのは、本来誰かのために闘うような存在ではない。飽くことなき強さの高みへの渇望、それがデュエリストの―というかスポーツ選手なんかの本質なのだ。一分一秒、コンマゼロ秒を争う世界で、記録を更新する喜びというのは常人には正直理解しがたい。コンマゼロ秒を縮めるために生理機能が低下するぐらい減量したり筋肉トレーニングに励むマラソンランナーなんかの感覚は、想像はできるにしても私の想像なんかでは到底追いつかないだろう。でも亮は要するにそういう人だった。スポーツ選手というのは、健康のための適度な運動を超えて健康を害するほどの過度の運動をする人種なのである。
だから余計にめんどくさい。勝利への欲望は、趣味=楽しむものとしてのデュエルを阻害するにしても、勝負(仕事)の世界にはあって当然ではある。でも、自分のために高みで闘いたいと願う(=趣味の究極)者にとってはむしろ邪魔なのだ。
そういう亮が勝利への欲望を超えた亮VSダークヨハンは、「亮VSヨハン」(趣味)と「亮VSユベル」(ヒーローのお仕事)が二重写しになっている。
趣味だから負けてもいいんだけど、仕事は本当は負けてはいけない。でもこれは、十代に向けて「他者を救うためにはヒーローは負けちゃいけない」ということを教えることになったし、その負け方(散り様)は力に目が眩んでも(覇王に心を奪われても)やっぱり負けるということを教えることでもあるから、結果的にはこれでいいのだ。それにしても覇王の力は使わないといけないけど乗っ取られても負けって本当に難儀な話である。
…何が言いたかったのか正直分からなくなった…というかそもそもこんな話になる予定はなかったんですが(笑)
亮ってかっこいいよね!って話です、それだけ!(笑)
65話、亮がヘルカイザーと化したとき―「何故だ」そう視聴者は思ったという。それが大多数なのか一部なのかは私には知る由もないが、ネット上を見る限り大多数であるように思う。
だが待ってくれ、「サイバー・ドラゴン三体融合で召喚するサイバー・エンド・ドラゴンが大好き」な時点で亮は海馬なのだ。これは全部見たから言えることではあるにしても、間違いないだろう。
ということは、驚くべきは「亮がヘルカイザーになったこと」ではない。そんなのは海馬を見ていればさもありなんである。だから驚くべきはそこではなく、あの海馬を原型にして「カイザー亮」を生み出す武上純希の(名指ししていいかどうか分からないが)腐女子顔負けの妄想力のほうなのだ!(笑)
他の話をいくつか見ても多分言える。武上さんは、どんな人からでも「良心の片鱗」あるいは「長所の素質」とでもいうものを見つけるのが異常にうまい。逆に言えば、「悪の片鱗」や「短所の素質」だって見つけるのがうまい。そもそもこれらは裏表の関係でしかないのだ。
剛三郎との確執・トラウマという闇が過去にある限り、海馬は遊戯の「友」には決してなれないにしても、その「友」とイコールで結ばれるレベルの「好敵手(ライバル)」にまでなった。だから亮は、第一期で十代の「先輩」だった。それは「好敵手」以上に「友」に近いもの、というよりは「友」そのものだっただろう。
けれど、亮はそこには留まれない。海馬を原型にした亮は、あくまで「好敵手」の宿命を背負っているのだ。ライバル―目指すスタイルを違える者、という。
ぶっちゃけた話、亮にとっても十代にとっても、「デュエル」は「趣味と実益(仕事)を兼ねたライフワーク」である。違うのは、亮の「仕事」が「プロデュエリスト」という次元なのに対して、十代の「仕事」は「ヒーロー」という次元にあるということぐらいである。そして、「仕事」でデュエルするときには勝たないといけないし、そのためには日々強くなる努力は怠れないのである。
だったら、趣味だけでやっているなら強くならなくていいか?これはもう本人の自由と言うほかないが、亮と十代に関して言えば答えはこうだ。強いほうが面白い。そういう結論を出しているのが亮VSダークヨハンだし、「趣味のデュエル」の究極が十代VS遊戯である。
だが、「趣味は仕事にしたくない」という考え方に一理ある通り、趣味を職業にするというのは非常な困難が伴う。亮と十代はもろにその困難に直面していた。仕事はときに、やりたくなかろうがやらなければならないし、できないから諦めるは通らない。できないことが仕事に必要になれば、できるようにならなくてはいけない。そのとき、好きでやっていたはずの「趣味」は楽しくない「仕事(タスク)」と化すのだ。
それでも、「直接的に誰かのためになる仕事」なら、まだジレンマは少ないかもしれない。だがデュエリストというのは、本来誰かのために闘うような存在ではない。飽くことなき強さの高みへの渇望、それがデュエリストの―というかスポーツ選手なんかの本質なのだ。一分一秒、コンマゼロ秒を争う世界で、記録を更新する喜びというのは常人には正直理解しがたい。コンマゼロ秒を縮めるために生理機能が低下するぐらい減量したり筋肉トレーニングに励むマラソンランナーなんかの感覚は、想像はできるにしても私の想像なんかでは到底追いつかないだろう。でも亮は要するにそういう人だった。スポーツ選手というのは、健康のための適度な運動を超えて健康を害するほどの過度の運動をする人種なのである。
だから余計にめんどくさい。勝利への欲望は、趣味=楽しむものとしてのデュエルを阻害するにしても、勝負(仕事)の世界にはあって当然ではある。でも、自分のために高みで闘いたいと願う(=趣味の究極)者にとってはむしろ邪魔なのだ。
そういう亮が勝利への欲望を超えた亮VSダークヨハンは、「亮VSヨハン」(趣味)と「亮VSユベル」(ヒーローのお仕事)が二重写しになっている。
趣味だから負けてもいいんだけど、仕事は本当は負けてはいけない。でもこれは、十代に向けて「他者を救うためにはヒーローは負けちゃいけない」ということを教えることになったし、その負け方(散り様)は力に目が眩んでも(覇王に心を奪われても)やっぱり負けるということを教えることでもあるから、結果的にはこれでいいのだ。それにしても覇王の力は使わないといけないけど乗っ取られても負けって本当に難儀な話である。
…何が言いたかったのか正直分からなくなった…というかそもそもこんな話になる予定はなかったんですが(笑)
亮ってかっこいいよね!って話です、それだけ!(笑)
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