やっぱり突っ込みたかったヘルカイザー編(爆)
タッグフォースに特に不満のない方は超スルー推奨です!!
ほんとなんの得にもならないので遠慮なくスルーしてください!!
TF3のヘルカイザーに引っかかった方だけ、折りたたみ反転どうぞです。
タッグフォースに特に不満のない方は超スルー推奨です!!
ほんとなんの得にもならないので遠慮なくスルーしてください!!
TF3のヘルカイザーに引っかかった方だけ、折りたたみ反転どうぞです。
主にハート2つ目イベントです。反転もかけておきます↓
「俺は自分で言っていたことを忘れていたようだ。
自分で自分の限界を決めていはいけない…」
このセリフの「自分で言っていた」というのは、卒業デュエルのTURN-52
十代:やっぱ、カイザーはすげぇ。パーフェクトだぜ!
亮:だが同時に、それが俺の、限界でもある。
十代:え?
亮:パーフェクトという、ある意味の限界を求めるな。
遊城十代、お前には無限の可能性がある。
のことだと思いますが。
亮は「自分で自分の限界を決めてはいけない」とは言っていません。
亮が言っているのは、
「俺はこれ以上強くなれないけど、
お前は俺以上に強くなれるから、間違っても
俺みたいになりたいなんて思うな」
ということです。
「自分らしさを忘れるな、でないと自分本来の可能性を殺してしまう」ということです。
高校3年生が使う単語として引っかかる「限界」という言葉は、亮はあくまで「亮」と「十代」を区別するために使っているだけで、その意味についてはむしろノータッチなんです。
そして、亮のこの「限界」の判断が正しかったことが、「亮の限界を超える相手」=「エド」の出現で分かります。
エド戦だけを見ると、「自分を見失った」=「リスペクトデュエルができなかった」、=「リスペクトデュエルができていれば勝てた」と解釈しがちですし、その時点でそう思わせること自体シナリオの狙いではあるのでしょうが、その後でエドに負けた十代が新しいE・HERO(=十代に眠っていた可能性のひとつ)で雪辱を果たしていること、そしてヘルカイザーのたどった道のりを見ていると、この解釈は正しくありません。
亮はあくまで、限界まで高められた自分のリスペクトデュエル以上の力を持つエドに負けた。亮が自分を見失ったのは、リスペクトデュエル=自分が敗北するところを見たくないが故の弱さであって、どちらに転んでも亮は敗北していた。
このことは、リスペクトデュエルを貫いてヘルカイザーに負けた翔が証明しています。十代が翔に向かって「お前こそがカイザーだ!」と言ったのは、「リスペクトデュエルの敗北」を、信じたものが敗れていく様を、翔が目をそらさずにきちんと受け入れたからです。
だからTURN-65とTURN-83の間にあるのは、亮がエド戦の敗北を正しく受け止めて、ヘルカイザーという道を自分の意志で進む決意です。亮に残された選択肢は、「絶対に勝てない相手」を放置したままリスペクトデュエルを続けて聖人を気取るか、リスペクトデュエルに殉じてデュエルをやめるか、リスペクトデュエルを捨てても強くなるか、その3つです。そして、考えるより先に、亮はもう強くなる道を選んでいた。「自分」を捨てても、「一人のデュエリスト」として闘い続ける道を、本能で選んでいた。2期の亮は「自分(≒カイザー)」を殺して「デュエリスト(ヘルカイザー)」に徹しているわけです。
こう考えるとエドのイヤミの意地悪さはものすごいです。
「自分を見失うほど熱くなったら、プロでは負けだ」なんていかにももっともらしく言ってますが、自分を見失おうが見失わまいがプロであろうがなかろうが亮は負けていたし、エドはそこまで分かってるくせにわざわざこんなことを言うんです。
確かに、イヤミってもともとこういうもの(役に立たない正論)なんですが、これほどイヤミらしいイヤミは見たことがありません(笑)
「亮が忘れていた『自分で言ったこと』」があるとしたら、「自分らしさを忘れて可能性を閉ざすな」のほうだと思います。ただ、亮自身も、自分の「自分らしさ」を知らなかった、あるいは誤解していたから、「忘れた」とはちょっと違う。
亮の「自分らしさ」は、十代が称賛した通り「強さ」だったんだと思います。
鮫島師範に教わったリスペクトデュエルは亮らしさの本質ではないし、十代に影響されて流れそうになった「楽しいデュエル」も、亮の目指すものとは違う。「強さ」こそが「亮が目指すべき自分らしさ」だったから、亮はリスペクトデュエルを捨てても、楽しさを捨てても「強さの高み」を目指した。
そして、「師範のリスペクトデュエル」を超えて、「強さ」や「完成度」を測る物差しを失った亮にとって、唯一目印にできるものが、「勝利」だった。
ハート3つ目に進みますが、亮が勝利の先に目指したのは強さで、強さを求めること自体が「本当の自分」や「アイデンティティ」を求めることだった以上、求めたものが大したものじゃなかったかもしれないなんて、口が裂けても言うはずない。自分の価値や可能性を否定することは、GXの中で完全にNGとされていることで、逆にそれを肯定するためにこそ、登場人物たちは「みんなとの思い出」を重ねていった。「絆に結ばれている自分」だから、「誰とも違う孤独な自分」を肯定できる、そういう話なんです。
なんというかまぁ…TFのシナリオスタッフに同情はするんですけど。GXのシナリオを裏情報なしで解釈してリライトするのがいかに難しいかというのは、ここ半年で嫌というほど思い知らされたので、いわんや仕事してる社会人にそこまで読めというのは酷だとは思います。私はここ半年起きてる間の思考の9割がGXですという記述に嘘偽りはありません(GX廃人と呼んでくれ!)(大学の授業はちゃんと出てるよ!上の空だけど)
でもなんというか・・・「公式」として受け取られるものでこのシナリオはやってほしくなかったな!っていうのが正直なところ。(注・とりあえずは「ヘルカイザー」だけです。カイザールートはそこまででもない・爆)
そんなわけで、最後に言うことでもないですが、TF2の吹雪かな?の紹介で「おそらく」なんて言葉が使われてることから言っても、KONAMIスタッフも視聴者同様アニメ本編以上の情報はもらってないと思います。
三沢とかブルーレイとか、それをアピールするためにわざと弾けたのか?とか憶測したりもしている(爆)単に開き直っただけかもしれないけど(笑)
普段はネタで誤魔化してるのに、ヘルカイザーはネタにできないからやり辛かったとかさ。十代ルートも若干そんな気配がある。
TF3が発売延期したり登場人物紹介が無いのって、そのへんどういう方針で行くか揉めたんじゃ?とか(爆)絶対藤原がネックだったんだぜ。設定の隠れ方が尋常じゃないもん(笑)
・・・というわけで、憶測は尽きない(爆)
TF4ちらっと見たけど、さらに勢いよく弾けてましたね!(笑)
5D'sはGXほど「隠れた真相」は無いので、「完全な間違い」が出ることは少ないと思います。うらやましい…(笑)
「俺は自分で言っていたことを忘れていたようだ。
自分で自分の限界を決めていはいけない…」
このセリフの「自分で言っていた」というのは、卒業デュエルのTURN-52
十代:やっぱ、カイザーはすげぇ。パーフェクトだぜ!
亮:だが同時に、それが俺の、限界でもある。
十代:え?
亮:パーフェクトという、ある意味の限界を求めるな。
遊城十代、お前には無限の可能性がある。
のことだと思いますが。
亮は「自分で自分の限界を決めてはいけない」とは言っていません。
亮が言っているのは、
「俺はこれ以上強くなれないけど、
お前は俺以上に強くなれるから、間違っても
俺みたいになりたいなんて思うな」
ということです。
「自分らしさを忘れるな、でないと自分本来の可能性を殺してしまう」ということです。
高校3年生が使う単語として引っかかる「限界」という言葉は、亮はあくまで「亮」と「十代」を区別するために使っているだけで、その意味についてはむしろノータッチなんです。
そして、亮のこの「限界」の判断が正しかったことが、「亮の限界を超える相手」=「エド」の出現で分かります。
エド戦だけを見ると、「自分を見失った」=「リスペクトデュエルができなかった」、=「リスペクトデュエルができていれば勝てた」と解釈しがちですし、その時点でそう思わせること自体シナリオの狙いではあるのでしょうが、その後でエドに負けた十代が新しいE・HERO(=十代に眠っていた可能性のひとつ)で雪辱を果たしていること、そしてヘルカイザーのたどった道のりを見ていると、この解釈は正しくありません。
亮はあくまで、限界まで高められた自分のリスペクトデュエル以上の力を持つエドに負けた。亮が自分を見失ったのは、リスペクトデュエル=自分が敗北するところを見たくないが故の弱さであって、どちらに転んでも亮は敗北していた。
このことは、リスペクトデュエルを貫いてヘルカイザーに負けた翔が証明しています。十代が翔に向かって「お前こそがカイザーだ!」と言ったのは、「リスペクトデュエルの敗北」を、信じたものが敗れていく様を、翔が目をそらさずにきちんと受け入れたからです。
だからTURN-65とTURN-83の間にあるのは、亮がエド戦の敗北を正しく受け止めて、ヘルカイザーという道を自分の意志で進む決意です。亮に残された選択肢は、「絶対に勝てない相手」を放置したままリスペクトデュエルを続けて聖人を気取るか、リスペクトデュエルに殉じてデュエルをやめるか、リスペクトデュエルを捨てても強くなるか、その3つです。そして、考えるより先に、亮はもう強くなる道を選んでいた。「自分」を捨てても、「一人のデュエリスト」として闘い続ける道を、本能で選んでいた。2期の亮は「自分(≒カイザー)」を殺して「デュエリスト(ヘルカイザー)」に徹しているわけです。
こう考えるとエドのイヤミの意地悪さはものすごいです。
「自分を見失うほど熱くなったら、プロでは負けだ」なんていかにももっともらしく言ってますが、自分を見失おうが見失わまいがプロであろうがなかろうが亮は負けていたし、エドはそこまで分かってるくせにわざわざこんなことを言うんです。
確かに、イヤミってもともとこういうもの(役に立たない正論)なんですが、これほどイヤミらしいイヤミは見たことがありません(笑)
「亮が忘れていた『自分で言ったこと』」があるとしたら、「自分らしさを忘れて可能性を閉ざすな」のほうだと思います。ただ、亮自身も、自分の「自分らしさ」を知らなかった、あるいは誤解していたから、「忘れた」とはちょっと違う。
亮の「自分らしさ」は、十代が称賛した通り「強さ」だったんだと思います。
鮫島師範に教わったリスペクトデュエルは亮らしさの本質ではないし、十代に影響されて流れそうになった「楽しいデュエル」も、亮の目指すものとは違う。「強さ」こそが「亮が目指すべき自分らしさ」だったから、亮はリスペクトデュエルを捨てても、楽しさを捨てても「強さの高み」を目指した。
そして、「師範のリスペクトデュエル」を超えて、「強さ」や「完成度」を測る物差しを失った亮にとって、唯一目印にできるものが、「勝利」だった。
ハート3つ目に進みますが、亮が勝利の先に目指したのは強さで、強さを求めること自体が「本当の自分」や「アイデンティティ」を求めることだった以上、求めたものが大したものじゃなかったかもしれないなんて、口が裂けても言うはずない。自分の価値や可能性を否定することは、GXの中で完全にNGとされていることで、逆にそれを肯定するためにこそ、登場人物たちは「みんなとの思い出」を重ねていった。「絆に結ばれている自分」だから、「誰とも違う孤独な自分」を肯定できる、そういう話なんです。
なんというかまぁ…TFのシナリオスタッフに同情はするんですけど。GXのシナリオを裏情報なしで解釈してリライトするのがいかに難しいかというのは、ここ半年で嫌というほど思い知らされたので、いわんや仕事してる社会人にそこまで読めというのは酷だとは思います。私はここ半年起きてる間の思考の9割がGXですという記述に嘘偽りはありません(GX廃人と呼んでくれ!)(大学の授業はちゃんと出てるよ!
でもなんというか・・・「公式」として受け取られるものでこのシナリオはやってほしくなかったな!っていうのが正直なところ。(注・とりあえずは「ヘルカイザー」だけです。カイザールートはそこまででもない・爆)
そんなわけで、最後に言うことでもないですが、TF2の吹雪かな?の紹介で「おそらく」なんて言葉が使われてることから言っても、KONAMIスタッフも視聴者同様アニメ本編以上の情報はもらってないと思います。
三沢とかブルーレイとか、それをアピールするためにわざと弾けたのか?とか憶測したりもしている(爆)単に開き直っただけかもしれないけど(笑)
普段はネタで誤魔化してるのに、ヘルカイザーはネタにできないからやり辛かったとかさ。十代ルートも若干そんな気配がある。
TF3が発売延期したり登場人物紹介が無いのって、そのへんどういう方針で行くか揉めたんじゃ?とか(爆)絶対藤原がネックだったんだぜ。設定の隠れ方が尋常じゃないもん(笑)
・・・というわけで、憶測は尽きない(爆)
TF4ちらっと見たけど、さらに勢いよく弾けてましたね!(笑)
5D'sはGXほど「隠れた真相」は無いので、「完全な間違い」が出ることは少ないと思います。うらやましい…(笑)
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