1976年~1984年に連載された竹宮恵子の「風と木の詩」は、「これからの少女漫画は風と木の詩以降という言い方で語られることになるだろう」と言われたくらいの少年同性愛漫画です。
この漫画について、臨床心理学者の河合隼雄は、愛蔵版第一巻の解説でこれを「少女の内界を見事に描いている」と言っています。
(参考:ウィキペディア「風と木の詩」)
ジルベールは誘い受けです。甘くて怠惰な生活へとセルジュを誘惑します。そこには「一瞬にして永遠の美」とでも言うようなものが存在していますが、同時に人間の本来の「生」から切り離された世界でもあります。
で、これが決定的なものなのですが、ジルベールは「誘い」受け、要するに一体化への意志を象徴する存在です。
ネタバレになりますが、立場的には受けになるジルベールは、ラストで死にます。彼を心から愛していたセルジュは「ジルベールを絶対に忘れない」と決意するというかたちで物語は締めくくられます。
ジルベールの死が意味するのは、この物語を内包する少女の少女時代の終わりです。
「一人の少女が大人になるということは、このくらいのむごさと痛ましさを持っている」と、例の解説で河合隼雄は言います。
これがどう吹雪と藤原につながるか。
吹雪をセルジュと見た場合、吹雪にとって「ジルベールの死」は159話で起こっていると言えます。藤原がダークネスと一体化して目の前から去ったことは十分ジルベールの死に値します。というより、「藤原はダークネスに取り込まれ、死んだ」と吹雪本人が言い切っています。ここでは藤原がジルベールです。
しかし、二人の場合セルジュとジルベールほど話は簡単ではありません。
吹雪をセルジュと見ると同時に、藤原をセルジュと見ることも可能なのです。
この場合藤原にとってのジルベールは「ダークネス」です。ジルベールに取り込まれた状態が「ダークネス藤原」です。この「ダークネス藤原」は「ダークネス」と一体化したことによって、セルジュとしての吹雪にとっては「ジルベールの亡霊」になります。けれど吹雪の中のジルベールは「死んだもの」としての地位を確定しています。だから一体化の素晴らしさを説く藤原の言葉には吹雪は惑わされません。それは「人が生きる」という観点では死の世界だと知っているからです。
けれど、もうひとつの視点が存在します。
それは、「セルジュとしての吹雪が、セルジュとしての藤原にどう対応するか」ということです。
その答えが「今度はボクも一緒だ」という言葉です。
セルジュはジルベールを失う運命にあり、それは悲しい喪失なのです。それに耐えられずジルベールを失えない藤原に対して、おそらくこれは「共に耐えるためにそばにいく」ということなのです。
その結果、吹雪の働きは目に見えなくなりますが、藤原はダークネスから、ジルベールの誘惑から解放されます。ダークネスの消滅は、藤原にとってのジルベールの死です。
藤原がダークネスの一件で後悔したことに対して、吹雪が「アカデミアはすべてを受け入れてくれる」と答えるのは、ダークネスへの傾倒が思春期に当然起こる嵐に起因している―と言うよりも、思春期の少女の葛藤そのものに符号することを考えれば絶対に必要な答えです。
思春期の嵐は、周りの人間のサポート、受け入れ態勢がなければ、少年少女自身を壊す、あるいは歪めてしまいかねない激しいものです。
最近の中学生を取り巻く環境は、それが決定的に欠けているみたいですが。(「思春期の危機をどう見るか」尾木直樹/岩波新書)
「風と木の詩」は少女漫画です。これは完全に極論ですが、もしこれを少女漫画の典型とすれば、少女漫画とは「一個の人間の内面のドラマを描く話」ということになります。しかもこれには神話的な要素、無性的な要素が入ります。「女ではない人間としての少女」を象徴するために、登場人物は「少年」になります。
それに対して少年漫画は、個人的には「複数の人間を外から見たドキュメンタリー的フィクション」じゃないかと思います。
亮はきちんと少年漫画です。彼の葛藤が外に映ることはありません。ヘルカイザーもカイザーも亮の中で位置づけられ、亮の中で物語は完結します。
けれど吹雪と藤原はお互いに内面を映しあいます。これは完全に少女漫画です。
これは完全に少女漫画です(大事なことなので二回(ry)
この場合ダークネスと藤原が吹雪の内面世界の登場人物と見るのが一番妥当な気がします。「吹雪」は「風と木の詩」の登場人物ではなく、その物語を内面に持っている少女(笑)であり、その中で「ジルベール/ダークネス」と「セルジュ/藤原」が葛藤していて、最終的にダークネスは死に、残った藤原を吹雪が肯定する=「ジルベールを失ったセルジュである藤原」と「吹雪」が一致して二人が大人の女になる(笑)わけです。
(参考:「子どもの宇宙」河合隼雄/岩波新書)
これ、CP論にも展開するんですけど。
私は基本的に「少女革命ウテナ」のウテナの名言「もうボクは王子様を追いかけない。今度はボクが王子様になる!」というスタンスでCPを考えます。でもこれは私の中でウテナが攻めだということではなくて、ウテナが決定的に受けだということを指します。私は、この発言は「誰か(=異性)に依存しなければ成立しない「女性」ではなく、女という性を持つ一人の「人間」として自立する」という意味だと思っています。
で、ウテナ度が高いほど受け、低いほど攻め。
そんなわけで、うちのサイトの受け担当は吹雪さんなのでした。
この少女漫画世界からはみ出した事象として亮受けがあります。
この場合少女漫画世界(に類似する物語)を内包していることが見ててバレバレだから受けって感じです。でも亮の場合それがきちんと自己完結してるから、完結せずにお互い映しあってる吹雪や藤原のほうがより少女漫画のスタイルに近づく=私にとって受け度が上がるという。
この場合亮を攻められる人間は、そもそも少女漫画世界と縁がない人間、あるいはそれを完全に隠しきれる人間ということになるので、うちだとマッドドッグ犬飼が推奨されるわけです(笑)
吹雪を完結した人間として捉えられれば、吹亮も可能ではあるんですが。(でもほぼリバ☆)
あいにく私はもう無理っぽいです(苦笑)藤原がいちゃー仕方ない!(笑)