…亮が強さだけを追い求めた一番の理由が…ようやく分かりました…。
昨日の記事で「亮はエドに十代をダブらせたから負けた」って書いたんですけど。
これで正しいと思います。
いつだったか日記で書いたんですけど、エドのE・ヒーローを見て笑ったのは、「勝てる」と思ったんじゃなくて、十代とのデュエルを思い出してしまったんだと思います…。
敗北で傷ついた「カイザー」のプライド。
どうして、そのプライドを捨てられなかったのか。
それは、あのとき亮が勝敗をかけていた「カイザー」が、亮だけのものじゃなかったから。
そこまではフローチャートにも書いたんですけど。
もう一歩踏み込めるところがあったんです。
亮が「カイザー」のプライドを捨てられなかったのは、「カイザー」がアカデミアの絆によって作られ、亮が卒業デュエルで十代と一緒に完成させたものだったからです。
その「二人で完成させたプライド」に、プロとしての、個人としての勝敗をかけてしまった。
十代の力の及ばないところで、十代のプライドさえも身勝手に傷つけてしまった。
だからこそ、「カイザー」の敗北は、亮の中で致命的な傷になってしまった。
敗北に目がくらんでいる間は、そのことには気づきません。
だから気づいたのは、ヘルカイザーとしてプロリーグに復帰したあとだと思います。
誰より十代に顔向けできないことをしたんだ、ということに、亮は気づいてしまった。
亮の「相手を無視した戦術」は、何よりこの心理から来ています。「相手に顔向けできない」という引け目があるから、リスペクトを取り戻せなかったし、相手を無視してしか勝てなかった。
そして、そのことに気づいたとき、亮はこう思ったんです。
「あの衒いのない感嘆の瞳を、真正面から見返せる(re・spect/リスペクトできる)自分にもう一度なりたい」
リスペクトデュエルで敗北した以上、残る「カイザー」の要素は力だけです。
だから亮は、あのパーフェクトデュエルの限界、CYBER END―仮想現実の果て、理論上の限界、つまり、自分で決めた超えてはならない一線を超えても、「力」を求めたんです。
「カイザー」のプライドは、「アカデミア」における関係性の中で力を発揮するものです。
だからサイバー流道場で鮫島師範に師範と弟子として相対しているときは、亮は本当はリスペクトデュエルをやろうと思えばできます。83話で、亮は師範に対する敬意を忘れてはいません。それでも、もう力を求めると決めているから、リスペクトデュエルを選ぶことはできない。
そして89話の吹雪は、亮を「亮」として見る親友だから、ダークネスもアカデミアとは関係がないから、リスペクトの精神を忘れないでいられる。けれど「カイザー」の誇りを取り戻したい亮にとっては、「ヘルカイザー」を認める勝利は意味がない。だから、メダルを踏みにじるんです。
けれど、95話の翔は違います。翔は十代の次に(逆ではない)、「カイザー」に憧れています。そしてだからこそ、「ヘルカイザー」を真っ向から否定してきます。亮はその否定を、無視するというよりは、全力で跳ね返します。それは「リスペクトデュエルの否定」です。忘れてはいけないのは、亮にとっても、「カイザー」は大切なんだということです。
けれど翔の目には、ヘルカイザーは「カイザーの否定」として映ります。このデュエルは、翔がそのズレを理解できなかったから負けた。亮が十代とエドのズレを見抜けなかったから負けたように。
しかしのこのデュエルの意味は、だからこそ翔の敗北にあります。これはリスペクトデュエルによって、亮が否定していたものが「カイザー」ではなく「リスペクトデュエル」であるということを見抜いて、「リスペクトデュエルを否定するヘルカイザー」の精神を、「リスペクトデュエルをしている翔」が受け止めきれるか、自己否定を受け入れることができるか、というデュエルだったんです。
「十代を否定するエド」の精神を、「十代に憧れている亮」は受け止めきれなかった。それは、そもそもその構造に気づいていないからでもありますが、それでも決定的にどうにもならないのは、十代とエドが完全に別人だからです。十代を否定する権利は、エドには無いんです。他人の人格を否定する権利は誰にもありません。それなのに亮は、敗北によってその否定を許してしまった。
けれど、カイザーとヘルカイザーはどちらも亮です。だからこそ翔は、リスペクトデュエルの否定を受け止めることができた。否定を受け入れるという、亮以上のリスペクトデュエルを、翔は達成することができた。翔はそのリスペクトデュエルによって、亮の中の矛盾を受け入れたんです。
そして同時に、それは亮の中の「ヘルカイザー」が、「カイザー」と同じレベルにまで到達したことを意味します。
だから亮は、その力で闘うべき最強の敵を求めます。
その敵と、もう一度卒業デュエルと同等の、最高のデュエルをするために。
その中で、出会った頃の十代と同じ瞳をもつヨハンに出会います。
147話「ヨハンの顔を持ち、ヨハンの力を持っているなら、オレと闘う義務がある」というセリフはここから来ています。なんで顔が要るんだろう…とか正直思ってたんですが、これは本当に必要なんです。十代と同じ瞳と力を持つヨハンを真正面から見返すことができなければ、敗北の傷を超えたことにならないから。
そして敗北の傷、勝利への欲望を超え、ヘルカイザーの限界さえも超えて輝いたとき、十代の瞳には卒業デュエルと同じ輝きが戻ります。その輝きが亮の敗北のすべてを赦し、亮はサイバネティック・ゾーン―サイバー・エンドの守護する領域へと還りつきます。
148話ラスト、亮の自嘲したヘル語がとても分かりにくいのでカイザー語に翻訳したいと思います。
「これが、強さだけを求めて闘ってきた者の末路だ…」
→力にとりつかれてしまえば、それは最後に自分自身をも滅ぼすだろう
「瞬間の喜び、地獄まで見て、オレがたどりついた結論だった」
(たどりついた結論=力あるカードにはリスクが伴う)
→ヘルカイザーを貫き通して分かったのは、かつての自分が正しかったということだった
「笑うなら笑え」
→オレに後悔は無い。お前は、今のオレを見てどう思う?
十代にはちゃんと、この「カイザーの声」が聞こえていたんだと思います。
148話の亮の最後のセリフ、「お前はもう、子どもじゃない」の意味は、「お前はもう、何が正しくて何が間違っているのか分かっている。だから、お前が正しいと思うことのためなら、力を使うことを恐れなくていい」ということです。
いつでもその笑顔
救われてきた僕なんだ
今だけ 泣いていいよ
ずっとここにいるから
ただ 僕はここにいるから
(ティアドロップ/BOWL)
誰から誰へでも使える普遍的なテーマソングだけど、
何より、誰より、亮から十代へのメッセージだったんだと心底思った…。
あのデュエルの記憶が、デュエリストとしての亮を支え続けたんだって…。
だから自分の輝きで、ヒーローとしての十代を支え返してあげたかったんだって…。
もうね…これはっきり分かったとき、ぼろ泣きとか(号泣)とか言うレベルじゃなかったよリアルに号泣だったよ泣き伏したよ…。
とりあえず本当にこればっかりは、亮に関してだけは、
頼むからKONAMIは亮に謝ってくれ
と思いました…。
亮は絶対に、勝利を求めた自分を卑下したりしない。それは十代を侮辱することになるから。
勝手な解釈をオフィシャルの名で売り出しやがって!!!(涙)
私もサイトでさんざんやってるけど趣味なのよ二次なのよ非公式なのよ!!
KONAMIの馬鹿!KONAMIの馬鹿!KONAMIの馬鹿!!
タッグフォースは楽しいけど嫌いだー(涙)
追記:この期に及んで切なさパワーアップ
すみません、私が楽観的すぎるせいなんですが、まだ拾い損ねていた要素がありました。
本筋は変わりません。亮がヘルカイザーになったのは、「十代がいたから」です。
83話「純粋なる勝利を得るために」
89話「勝利を得るために」
多分この二つのセリフは、少しだけニュアンスが違います。
「純粋なる勝利」は、正しい力を使う者、勝つべき者に与えられる正当な勝利。
単なる「勝利」は、それも含めたすべての勝利。
亮が何故、迷いなく勝利を目指すことができたのか。
それは、「ヘルカイザー」の勝利を求める根拠が、生きる意志というもう一つの正しさにあったから。
そして「カイザー」の正しさを証明するためにも、亮は賭けに出たんです。
「ヘルカイザー」が間違っているなら、必ず最後には敗北が、否定が待っている。
生きる意志を根拠に、勝利を求めて、強さだけを求めて闘い抜いた果てに待っているものが、「カイザー」のもう一人の担い手である十代への敗北、十代からの裁きなら、亮は多分本望だった。むしろ、最後に待つものがどうか否定であってくれと願って、「ヘルカイザー」を貫き通した。
けれど、146話で、皮肉にも亮が想定したものとは真逆の構図に陥ってしまった。
亮の本音はこうでしょう。
「こんな結末のために闘ってきたわけじゃない」
亮も、十代も、お互いに相手の誠実さを疑ったことなどありません。けれど十代は、亮の目の前でその信頼を裏切ってしまった。罪の重さに向き合うことができなかった。
けれど運命は、十代が亮を裁くことも、亮が十代を裁くことも認めませんでした。
亮の命がデュエルを中断させ、亮には、十代の分身であり、守るべき者であり、倒すべき敵であるユベルに取りつかれたヨハンという相手が与えられました。
そして「ヘルカイザー」の力の限界を超えて、亮は自らの命の輝きで十代の瞳の輝きを取り戻し、パワー・ボンドのライフダメージで「ヘルカイザー」は敗北しました。
レインボー・ダークの攻撃力が9000に強化されたとき、敗北の決定を知ったとき、亮は笑いました。「ヘルカイザー」の力の限界を超えてさえ敵わない、「ヨハン」の力。亮はむしろ「カイザー」としてこう思ったのかもしれません。「勝った」、と。
亮に待っていたのは、生きる意志と「カイザー」、両方の正しさを証明するデュエルです。
「笑うなら笑え」―「ヘルカイザーの否定」を覚悟していた亮に、返ってきたのはカイザーの、というよりは、「亮の肯定」だけです。
それは何故か。それは、亮も、十代も、お互いに疑わなかったように、二人が自分のできる限りで、あくまで誠実に生きてきたからです。
「何も見えない子ども故の過ち」は、決して「取り返しのつかない罪」ではない。
それが、遊戯王デュエルモンスターズGXが主張するテーマのひとつです。
どんなに険しくても、贖罪の道は必ずある。それを超えて大人になったとき、奇跡は起きる。失ったはずのものすべてが返ってくる。
…これで…要素は…全部だと思うんですけど…!
GXは意味がありすぎて意味が分からない(><)
GXは、とてつもなく深い真実と真理と絆の物語です…。
個人的な参考文献ならぬ主な参考著名人:
西谷啓治(宗教哲学者/主に講話とエッセイしか読んでない)、河合隼雄(臨床心理学者/超おすすめ!)、林原めぐみ(声優・作詞家/大好き)